RZ350とEX250-F

二台の黄色いバイクの話

2007年の北アメリカ大陸横断に駆り出した二台のバイクについて少し触れておきたい。

写真: 二台の黄色いバイク
左から、2002年式Ninja 250Rと1984年式RZ350

一台は、ヤマハのRZ350。日本では末尾に「R」が加わりRZ350Rと呼称されるが、これはRD350LCの名で北米に輸出された先行車種のほうを国内でRZ350と呼んだためだろう。アメリカでの販売は1984年と1985年の二年のみ。学生としてニューヨークに住むようになってから半年、2004年の春くらいに個人売買で購入したバイクで、セントラル・パークを抜けての通学や近郊のツーリングに、いつも自分を加速させてくれた。

もう一台は、カワサキのNinja 250R。北米での型式名はEX250-Fで、保険はこちらで登録した方が大人しそうなぶん安いらしい。2007年時点で新車販売が続いていた車種ということもあり、当初はこれを二人ぶん揃える計画だった。同じ型のバイクなら、消耗品や予備部品、工具などが共用で済むからだ。旅の車両の条件に合わないRZを売却し、色の違う二台のEXを入手するという意思は、ある段階までほぼ固まっていた。

出発の数ヶ月前に綴られたいくつかの走り書きを見直すと、そこにはRZが残るという未来を(どこかで望みながらも)まだ知らない立場から、車種選定の理由、一台目のEXの買い入れの様子、RZからのバトンの受け渡しという意識、などがそれぞれ比較的詳細に書かれている。

2007年4月13日

単車でのアメリカ横断。物理的には、特別難しいことじゃない(やったことないけれど)。モンキーでやった人もいるし、それこそエンジン無しの自転車でやってる人も沢山いる。困難な条件をあえて設定するとすれば、もう徒歩とか、あるいは藤原かんいち氏のように電動バイク(航続距離が短く、充電に時間がかかる)という選択肢もある。ルート設定さえしっかりしていれば、排気量は高速に乗れる下限である150ccで実質十分だといえる。

今回の横断に選んだのは、カワサキのNinja 250R。日本ではGPX250Rと呼ばれていた車両で、アメリカでは二十年以上も売られている、いわば「枯れている」バイク。枯れてるということは、機械として信頼できるということ。しかも現行車だから、道中でもカワサキのショップに行けばまずパーツを置いてる。この利点は大きい。今乗っているヤマハのRZ350(R)ではこうはいかない。

この250ニンジャ、アメリカではNinjette(コニンジャ)の愛称で親しまれ、幅広い層のライダーにファンがいる。初心者バイクとして優秀、かつベテランでも楽しめる車両みたいだ。そして何より、価格が安い。メーカー希望小売価格2,999ドル。今回の横断は二台体制となるので、当然安いバイクしか買えない。2007年の新車をディーラーで購入した場合、乗り出しは3,500ドルくらいになるだろうか。高年式の中古にするか迷うところ。

この価格帯には他にホンダのレブルとナイトホーク250、スズキのGZ、ヤマハのビラーゴなんかがある。レブル、GZ、ビラーゴはクルーザー型と呼ばれるジャンルのバイクで、一見長距離向けに思えるけれど、タンク容量が少ないのでガス欠の不安がつきまとう。ナイトホークは前後ドラムブレーキで、空冷エンジンも退屈とのことなので除外。コニンジャは前後ディスクで水冷、タンク容量×燃費も申し分ない。

今月中に一台は購入する積り。RZと別れるのが辛いけれど。

2007年4月25日

ニューヨークは二、三日前から夏模様。こないだまで暖房が必要だったのに、今は日が暮れてからもしばらく窓を開け放って風を入れている。駅から部屋までの道沿いに小さな桜の木が花をつけてるのをついこないだ見かけたと思ったら、昨日通りかかった時にはもうほとんど若葉に追い落とされていた。

今日は近く手放す予定のRZを少し整備し、その後ブルックリンへ。横断に使用するモデル、カワサキNinja 250Rの中古車を見に出かけた。夏空のせいで人出が多くなっているのか、道路の混雑がひどい。行き先は以前友達が住んでいたエリアだったのだが、真昼間に訪ねたことが無かったので予想よりも時間を食った。

BQE(ブルックリン・クイーンズ・エクスプレスウェイ)の下りはひどい渋滞で、到着は約束の十五分遅れ。ビルの二階に冬季保管された単車は、とても良いコンディションにあった。外に運び、RZからガソリンを少し移して冬眠していたエンジンに火を入れる。暖気が済んだところで駐車場内を少し乗ってみる。

吹け上がりやシフトに問題がないかチェックした後、両手放しで真っ直ぐ走るか試したり、急ブレーキをかけてみたり。倉庫街の地面は駐車場を含め石畳のようになっていて、十分な試乗はできないけれど、二十三年目のRZより頼れるということはわかった。同じように愛せるかどうかはまた別の話だけど。

帰り道もエクスプレスウェイはやや混んでいて、途中から下道で帰ることにした。マクギネス・ブルバードの終わりにブルックリンとクイーンズをつなぐちょっとした橋があり、渡ればアパートまであとわずか。だが、行ってみると渋滞。その先に垂直の道路。跳ね橋だとは知らなかった。一度下りだした後、また持ち上がってきて、車列は進まず。

何人かは車を降りて、そびえ立ったアスファルトを睨みつけてる。待っていてもどうにもならなそうなので、跳ね橋への高架には乗らず、側道からたもとまで行ってみた。小さなタンカー(?)のような船が、ちょうど通過するところ。その向こうにはクイーンズのシンボルの一つ、レゴを積み上げたようなCitiのビルが立ってる。

橋が下がり始めたのを見てマクギネスへ戻ると、渋滞は悪化していた。並んでたらまた橋が上がらないとも限らないから、このルートは捨てる。西日の中、ドライバーたちの顔に苛立ちが表れてる。レザーパンツがほんのり暑い。アリゾナなんかへ行くことを考えると、パンチング加工でもしないと駄目かも知らん。最初に下道へ抜けたところの信号で、メキシコ系のおばちゃんが水とオレンジを売ってたな。

2007年4月26日

買ったばかりのコニンジャと、近くさよならすることになるRZ。色を合わせたのは、少しでもさみしく感じないようにってのが大きい。このタイミングで黄色のコニンジャが見つかったのはすごくラッキーだった。

このRZのカラーはヤマハのレースチームが用いる「USインターカラー」というもので、GPレーサー"キング"ケニー・ロバーツのシンボルカラーでもある。RZ350Rは日本でも販売されていたが、ケニー・カラーは出ていない。

日本だったら、こんなハチみたいなバイクに乗ろうとは思わなかっただろう。風景から浮いてしまうし、街灯の色にも、しっとりとした気候そのものにも不似合いだ。だがドライで直線的なアメリカでは、これがしっくりくる。

RZは2ストロークという燃焼行程のエンジンを積んでおり、ガソリンと一緒に専用のエンジンオイルを燃やすため、排気口からは白煙がモクモク出て、オイルの香りがする。その香りが、これまでどこへ行ってもついてきた。

一方でコニンジャは4ストロークエンジンのバイクだから、2ストオイルの煙を、慣れ親しんだ路上の匂いを吐かない。今度の乗り換えはつまり、ざらざらと尖った黄色から、角の取れた黄色への移行ということになる。

コニンジャを自分のもの、あるいは「自分」として感じるようになるには、まだ時間が要る。売ってくれたアーサーの切なそうな背中を思い出さなくなったころ、黄色いバイクの上、アメリカの道はどんな風に見えているだろうか。

2007年5月7日

登録してからおよそ一週間で150マイルほど乗ったが、EX250はバランスの取れた欠点の無いバイク。一定のアクセル開度を保つ状況が多くなる旅では、やはり2ストよりもこういうマイルドな4ストが楽だろう。

マイルドといっても遅いわけじゃない。2002年式のミニ・ツアラーは車体やサスペンション、ブレーキ周りもしっかりしていて、同じ速度でも安心感が違う。相対的に言って遅く感じるから、のんびりした気分で交通の流れに乗ることができる。

7,500miles(12,000kmちょっと)の中古車で、1,900ドル。登録にかかった諸費用(税金、申請料、ナンバー代など)が250ドルくらい。三ヶ月以内に所有者証明書が送られてくる(これが無いと公道向けには売却できない)。

この後、恐らく5月の終わりごろだったか、売り物として出すための整備を受けたRZに久しぶりに乗ってみた瞬間、予定は変更されることになった。アメリカを横断するなら、自分が乗るのはニューヨークに渡って以来ずっと付き合ってきたこのバイク以外にない。燃費やエンジンオイルの入手性の悪さに悩まされても、あるいは故障で部品の調達に何週間もかかったとしても、その程度の苦労は、RZを置き去りにしてしまったことの後悔には遠く及ばないだろう。

使用するバイクが変わった理由はもちろん、こうしたセンチメンタルなものだけではなかった。一台目のEXの取引の後、タイトルすなわち上述の所有者証明書が州のDMV(デパートメント・オブ・モーター・ビークルズ)から届くまでに一ヶ月以上がかかっていた。車両の売買にはこの書類が不可欠であり、つまり二台目のEXを西海岸に着いて売るためには、8月初めの出発から逆算して、遅くとも6月中旬までに中古車を見つけ、購入手続きを済ませなければならなかった。

写真: ショップ内、RZ350の後姿
横断仕様に改造中のRZ350

第二のEXが幻となったことで、続投の決まったRZは長距離行のために積載関係の改造を施され、自分が乗る予定だった黄色いEXには、横断の道のりを共にするパートナーが乗るということになった。2007年の8月、こんな経緯で、二台の黄色いバイクは旅の始まりを迎えた。