「かな」のはなし: 出会いと自由

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雨やみしのちのかなかなしぐれかな

「かな」という、安定した意味を持たない、語ともいえないような語が日本語にある。仮名のことではなく、切れ字の一つ。漢字を用いるなら哉と書く。「春風に尻を吹かるる屋根屋哉」(一茶)てな調子で、何かしらの感動がそこにあるんだよ、ということを指差す矢印、目印のようなものだ。俳句という凝縮された言語芸術においては、この目印が切れ=休止を生じさせ、読み手をふと立ち止まらせる。読み手はそこに起き抜けの世界のような、まだ言語的に分節されていない何かを見つけるのだ。

「かな」。切り、省き、捨てていく詩歌の一大流派から生まれ出た、日本語の中のもののけ。母音「あ」を二つ含み、「k」という乾いた音から「n」へ抜ける。明るく、つかみどころなく、鼻を鳴らして飄々としている。疑問の「かな」がこの形を取るのも必然性があってのこと、とまで考えたくなる。この切れ字「かな」を書き下された?(はてな)のような存在とすれば、なつかしの某暴走族漫画に頻出した「!?」なんかも一種の切れ字だと言ってしまうことだってできる。

「かな」を含む代表的な切れ字は、そのまま翻訳することができない。これは美点であり、またこの特異種のもつ限界でもある。これら「かな」「や」「けり」などは日本語の内部においてもまた「保護種」のような立場にあって、この弱点に吊り合うだけの美点を探すとなると、文化的純粋主義に走るほかなさそうだ。俳句の内部で考えると俳味の権化のように見える「かな」も、俳句の外部、現代口語の路上に生きる読者がそれに出会うとき、彼(女)が受けるのはまず、「俳句の座敷に上がらされている」という印象だろうから。要するに、構えさせてしまうということ。

そんな「かな」を茶化し、本来の生き生きとした不定形として遊ばせているのが、冒頭の一句。大木あまりの句集『火球』(流星の意)から。ヒグラシの声がもたらす何とない夏の「かなしみ」の感覚、それが言葉遊びの軽みに奥行きを与えている。あるいは言葉遊びそのものが、言葉と言葉を偶然に出会わせるはたらきをする。言葉たちは、新しい出会いによって自由を得る。この「かな」遊びが示すように、どのような出会いを紙に留めておくか、結局はその選択こそが詩人(ここでは俳人)の仕事なのかもしれない。わたしは推敲で痩せる、という白秋の言葉を反芻するなら、詩人が痩せるのはつまり、推敲が別離を伴うものだからだ。

言葉は使用されることで新しくなる。だから、頻繁に使われる言葉ほど早く変化していく。「意味を考えるな、使用を見ろ」とヴィトゲンシュタインが言っていたが、使用というのは文やフレーズのなかで言葉の組み合わせを作ること、言葉同士を出会わせることなのだ。ラッパーは博徒のように、韻という偶然に出会いの訪れを賭ける。あるいは中島敦や開高健のように、一つの語に惚れ、その語のための至高の文脈を作り上げているかのような者もいる。いずれにしても、誰かの作った組み合わせを反復することはできない。出会うためには独りであり、自由でなければならないのだ。