北原白秋「酒の黴」

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酒の黴

酒屋男は罰ぶらんが不思議、ヨイヨイ、足で米といで手で流す、ホンニサイバ手で流す。ヨイヨオイ。

1

きんの酒をつくるは
かなしき父のおもひで、
するどき歌をつくるは
その兒の赤き哀歡あいくわん

きんの酒つくるも、
するどき歌をつくるも、
よしや、また、わかき娘の
てて知らぬ子供生むとも············

2

からしの花の實になる
春のすゑのさみしや。
酒をしぼる男の
肌さへもひとしほ。

3

酒袋さかぶくろを干すとて
ぺんぺん草をちらした。
散らしてもよかろ、
そのとなるもせんなし。

4

もとすり唄のこころは
わかき男の手にあり。
かいをそろへてやんさの
そなた戀しと鳴らせる。

5

麥の穗づらにさす日か、
酒屋男さかやをとこにさす日か、
輕ろく投げやるこころの
けふをかぎりのあひびき。

6

人の生るるもとすら
知らぬ女子をなごのこころに、
が馴れ初めし、酒屋の
にほひか、麥のむせびか。

7

からしの花も實となり、
麥もそろそろ刈らるる。
かくしてはやも五月は
はかる手にあふるる。

8

はじ實採みとりの來る日に
百舌もず啼き、人もなげきぬ、
酒をつくるは朝あけ、
君へかよふは日のくれ。

9

ところも日をも知らねど、
ゆるししひとのいとしさ、
その名もかほも知らねど、
ただ知る酒のうつり香。

10

足をそろへてぐ米、
水にそろへて流す手、
わかいさびしいこころの
歌をそろゆる朝あけ。

11

ひねりもちのにほひは
わが知る人も知らじな。
かたくなのひとゆゑに
何時いつまでひねるこころぞ。

12

ほのかに消えゆくゆめあり、
酒のにほひか、わが日か、
倉の二階にのぼりて
暮春をひとりかなしむ。

13

さかづきあまたならべて
いづれをそれと嘆かむ、
唎酒ききざけするこころの、
せんなやわれも醉ひぬる。

14

その酒の、その色のにほひの
口あたりのつよさよ。
おのがつくるかなしみに
られて泣くや、わかうど。

15

酒をかもすはわかうど、
心亂すもわかうど、
誰とも知れぬ、女の
その兒の父もわかうど。

16

ほのかに忘れがたきは
酒つくる日のをりふし、
ほのかに鳴いて消えさる
青い小鳥のこころね。

17

酒屋の倉のひさしに
薊のくさの生ひたり、
その花さけば雨ふり、
その花ちれば日のてる。

18

計量機カンカンに身を載せて
はかるは夏のうれひか、
薊の花を手にもつ
裸男の酒の香。

19

かなしきものは刺あり、
きずつき易きこころの
しづかに泣けばよしなや、
酒にもかびのにほひぬ。

20

目さまし時計の鳴る夜に
かなしくひとり起きつつ
倉を巡囘まはれば、つめたし、
月の光にさく花。

21

わがる倉のほとりに
青き放つものあり、
螢か、酒か、いの寢ぬ、
合歡木カウカノキのうれひか。

22

倉の隅にさす日は
ほのかに光り消えゆく、
古りにし酒の香にすら、
人にはそれと知られず。

23

青葱とりてゆく子を
薄日の畑にながめて
しくしくいたむこころに
酒をしぼればふる雪。

24

銀の釜に酒を湧かし、
金の釜に酒を冷やす
わかき日なれや、ほのかに
雪ふる、それも歎かじ。

25

夜ふけてかへるふしどに
かをるは酒か、もやしか、
酒屋男のこころに
そそぐは雪か、みぞれか。

一行十一音の四行を一連とする「酒の黴」は、酒造を生業とする家に生まれた白秋の原風景であり、また酒造りに映された人間の生の原型でもある。この詩の全体をくまなく包んでいるのは、白秋のエッセンスともいえる透明感と澱の同居、人間に対する疎ましさと同情、そして音楽性とイメージの力。一つ一つが単独の抒情詩として成り立ちうるような断片が連なって、酒造りの一年という叙事的な世界を作り出す。そのなかに、わこうどと娘、二人の別れ別れの物語は密やかに、綴るともなく綴られる。わずかに匂うばかりの、透明なバラッドがそこにはある。