"Song of the Open Road" by Walt Whitman (opening part)
Afoot and light-hearted, I take to the open road,
Healthy, free, the world before me,
The long brown path before me, leading wherever I choose.
Henceforth I ask not good-fortune—I myself am good fortune;
Henceforth I whimper no more, postpone no more, need nothing,
Strong and content, I travel the open road.
The earth—that is sufficient;
I do not want the constellations any nearer;
I know they are very well where they are;
I know they suffice for those who belong to them.
(Still here I carry my old delicious burdens;
I carry them, men and women--I carry them with me wherever I go;
I swear it is impossible for me to get rid of them;
I am fill'd with them, and I will fill them in return.)
詩の中に良きアメリカを探すとしたら誰を読む、と問われれば、ホイットマンを読むと答える。「アメリカ詩」の父、free verseの父、ウォルト・ホイットマン。
King James版聖書の散文に由来するといわれるホイットマンの韻文には不規則ながら心地よいうねりがあって、続けて読んでいると軽い船酔いのような感覚に陥る。パウンドもそんな「むかむか」に言及し、気がつくとホイットマンのリズムで文章を書いている自分がいる、と告白している。自由律詩、free verseは決して「リズムの無い詩」ではないのだ。この詩、Song of the Open Roadを読んでもわかるように、ホイットマンのリズムは結構iambicで、しかしすっかりiambicだと言い切るには不規則過ぎ、多くの場合anapestic過ぎる。いつのまにか揺られている、大波小波の群れ。ホイットマンのもうひとつの特徴である反復表現もまた、始まったかと思えば終わっていて、自身を完全に定式化してしまうことがない。読み手は少し揺られ、また次の波に渡される。とらえどころは見つからず、だが確かに酔わされる。
小波大波が語る内容に目を向ければ、発言の思い切りの良さとサイズの大きさにすぐに気がつく。万人をその内に含んでしまうような大きな"I"、それでいて孤独を感じさせる"I"がそこにはあって、自分はこの"I"の歩く姿こそアメリカの後姿ではないかと思う。当のアメリカは今や後者の"I"のほうばかりになって、孤独もひどくナルシシスティックなものになってしまったけれど。それでもテレビを捨てて道路をゆけば"I am fill'd with them, and I will fill them in return."に表されたような、さりげなく深い交換・交感が今でもそこここで生きているのがわかる。アメリカは間違いなくハイウェイの国だが、それに平行してきっとbackroadが走っている。ここは恐るべき田舎の国、走りつくせぬopen roadの国でもあるのだから。