Egon Schiele at Neue Galerie
86th Stと5th Aveの角にあるNeue Galerieにて、オーストリアの画家エゴン・シーレのコレクションが展示されている。あと二日、まで。一般$15、学生は$10。
今回のコレクションを見て、ああ、石だな、と思った。ゴッホなどと同じくシーレも自画像を多く描いたが、坂崎乙郎が書いているように、彼の場合は他者を描いていてもその肖像が自己のそれとどこか混じり合ってしまう。どんな画家にも共通するレベルの話でなく、どの人物画にもたしかにシーレがいる。あるいはそのどれにも、自画像にもどこにも彼が「いない」。石だな、と感じる理由のひとつがこれ、石の欠片のような人間、というイメージだ。Ichが砕けた音としてのIshiを何度か頭の中で繰り返した。
邦訳タイトルで「帰依」と呼ばれる絵が飾られていたが、石の握りこぶしのような、角ばったアンモナイトの化石のような渦巻きのなかに、恋人ウァリーの二重像と一人の男の姿があって、男は顔と右手のほか、その身体がどのようにそこにあるのかはっきりしない。シーレの他の作品と同様、ここでも絵の重心を担うのは(睨みつける)「目」であり、それは右端の女、妊娠したウァリーに与えられている。目を閉じた男の身体は、いわば彼ら全員を包む雲母の層そのものであるように思える。目を見開いたウァリー、目を閉じた男(あるいは岩石のような父性)、固く握り締められたこの二つに通底し横たわるのが、割れた石のようなシーレなのだろう。東方正教のイコンが持つ温みと冷たさ、存在と不在の同居した感触。
シーレのコレクションの楽しみは実は彼の描く風景画、特に建物の絵にあるのだが、それもそれらの建物たちが「石の存在感」でもってこちらを見つめてくるからだ。小さな子供のころ、建物や自然物、木目のある一部分がこちらを見つめている、という感覚を持ったことが誰にもあるだろう。周りの人々や音声が遠のいて、こちらを見つめる物と自分との、二つきり、二人きりの時間が流れる。人物を排除したシーレの絵の建物は、窓という窓を目の代わりにして、もうあからさまにこちらを見つめてくる。はっきり言って怖い。そしてそこで起こっていることは、見る主体による対象の擬人化とはどこか違っている。二者が同調を起こすのは確かなのだけれど、その周波数は完全な無生物の側にも、完全な生物の側にもないのだ。
ブロツキーのいう「目の自由」を重ね合わせて、シーレの絵からこちらを見つめてくるそれは何なのだろう、と考える。主体の自由意志を超えたところに目の自由があるとして、その目はあの建物たちのように、物欲しそうな、優しげな、いやらしくて暖かく、子供っぽく、また容赦無い、あんな表情をするものなのだろうか。そして詩を作る者は、どうしたら詩にそんな目を持たせることができるだろうか? 誰もいない開かれた窓に似たものとして、自分が思いつくのは韻くらいだ。左右に押し開かれた一組の雨戸のように、一組の韻がそこにある。音の重なりのうえにぽっかりとあいた意味の空洞が、こっちを見つめてくる。