やがて哀しき外国語
『やがて哀しき外国語』は、 現在アメリカで最も広く知られた日本作家・村上春樹がプリンストン客員時代の体験と随想を綴ったエッセイ集。
表題作となっている「やがて哀しき外国語」に示されているのは、外国語習得というもの、特に会話能力の習得に没頭することへの私的な諦めの念であり、それにともなう全般的疑念である。通りがかりの客人でいるうちはともかくとして、外国語の会話能力を鍛えるというのは、戦いとしての異文化コミュニケーションを生き抜く力を磨くということを含まずにはいられない。 そしてそのことは実際のところ、同文化内でのコミュニケーションにも適用できてしまう。エッセイを通して筆者が告白してしまっているのは、実は(題に反して)会話術というようなものそれ自体のつまらなさであると言っていい。アメリカに影響された日本語の小説家である以上、彼は外国語の哀しさを語るほかないだろうが、彼の言うところの哀しさはどの言語にもついて離れないものなのだ。
飯島幸一が漏らした「わたしは母国語で日々傷を負う」という言葉を考えるなら、われわれが本当に身につけるべきなのはその傷を道として、そこからその先を見ようとするような言語使用の方法、つまり本来的な意味での文学の方法である。そして傷を相対化しつつたどっていく限り、いつまでも絶対的に外国語であり続けるような外国語というものは存在しない。安定した「内」を保証してくれる「外」など現実には無い。だからこそ人はあるところで自分にとっての「内」と「外」の区分を自らプロデュースする必要に迫られる。これもまた現実の反応であれば、『やがて哀しき外国語』という甘さ(in七五調)もまた、やはり現実にはどうしようもない人情なのだろう。