英語俳句と日本語学習

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以前に書いた英語俳句についての概観のなかですでに同じようなことを取り上げたが、もう少し突っ込んで話を進めてみる。ほとんどの英語俳人が日本語を勉強していない、する必要も感じていないという点について。

翻訳で失われるのは詩そのもの、というロバート・フロストの言葉はよく知られているが、たとえばタルコフスキーの『ノスタルジア』にも「どんなに良くできていても、翻訳で詩を読むな」といったような台詞が出てくるし、「翻訳の仕事で自分(の詩的創造力)が枯れていく」と感じたツヴェターエワの話などもある。

上記の例のうちフロストのもの以外を自分は翻訳によって知ったわけだから、文言の「要旨」を伝達するものとしての翻訳を自分は否定していないし、無かったら非常に困ると思う。それでも言葉そのものを扱う芸術、特に詩について言えば、翻訳は単にイントロダクションに過ぎないし、それも可能ならばスキップした方が良いイントロダクションだと思う。

「ランボーを読んだ」と俺が言うとして、実際にフランス語で読んだのものは数えるほどしかないから、実際問題それではちゃんと読んだとは言えない。だがランボーやボードレール、ヴェルレーヌ、ヴァレリーを翻訳のみ読みながら「読んだ」と言ってきた日本人はものすごく多いだろう。同じことが英語俳句の世界で、芭蕉や蕪村、一茶、子規について起こっている。

象徴詩や散文詩を書くのにフランス語の勉強が必須であるかはわからないが、俳句という有季定型の詩を書くに当たって日本語をまったく知らないのは痛い。サイードは『オリエンタリズム』の中でラマルティーヌがアラブ詩を自信満々に語りながら実際にはアラビア語を知らなかったこと、知らないことを恥じている様子がちっとも見られないことを指摘している。沢山の英語俳人たちが同様の過ちをおかし、英語の内部だけですべてを解決しようとしている。

このような状況に対して、俳句の同郷人である日本人は、まず英語で発言せざるを得ない。ヴィトゲンシュタインの言うように(これも英訳・和訳で読んだ)コミュニケーションというのは非対称なもので、国際コミュニケーションというものの内実は戦いだと言っていいかもしれない。