ストリートと言葉

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ニューヨーク市立図書館の正面廊下にあたる41Stを歩いていると、真鍮のようなプレートに刻まれた様々な言葉が歩道に埋め込まれていることに気がつく。フロストやディキンソンやブルックスなどの詩人、また小説家や歴史家達の言葉の断片をレリーフとして読むことができる。日本でいえば名所旧跡の句碑なんかを思い出すが、都市部の路上にこのような言葉との出逢いがあったかしら。広告や看板、政党のポスターの類なら目にすることがあるけれど、何かの道具でない言葉が人々の公認をを受けて配置されているという例を俺は挙げることが出来ない。

自転車通学をしていた高校の頃、西荻窪駅から路地を北へいくらか登ったところの路上に白字で「やがてカオスの海に」と書かれていたのを思い出す。誰かを傷つけるでも何かを売るためでもない言葉がそうしてアスファルトの上に広がっているのは不思議なことだった。会話の中では理解されえないかも知れない言葉にも(あるいはそんな言葉にこそ)表に出るだけの価値があって、そうした言葉を抱えた人が今の日本にも山ほどいるだろう。そのような発言衝動に一つの形式を与えるものの一つが、それこそカオス的に氾濫しているグラフィティという外来種の行動様式である。

最近日本でさかんになってきているリーガル・ウォールの運動(合法的に落書きできる壁を地域との話し合いの中見つけていく活動)なんかを考えると、グラフィティに限らずあらゆる分野の作品がもっとストリートに出てきていいのではないかと思う。小学校・中学校の図工や美術の製作品は学期が終わればだいたい家に引き取られていって、ものをつくるという行為は学校のカリキュラムという閉じたサイクルの中で終わってしまう。門を出たら外のストリートは荒涼としていて、そこに暴走族や愚連隊の見事なロゴ(今だったら見事なグラフィティーのピース)が現れればそりゃあどこかしら子供は影響を受けるだろう。町が企業や政党のものではなく自分達のものだという感覚を誰だって求めている。

仮に「大掛かりなアートワークを街に持ち出すのは困難である」として、詩の一節やなんかが街角にあったらどんだけいいかと思うし、それは物理的にはぜんぜん難しくないと思う。またイリーガルなものはイリーガルなものでどうしても噴出するとして、それがグラフィティ一辺倒であるような状況は不健康だと思う。実家の近所には「大バーゲン」とか「バカおまわり」なんていう謎の落書きがあったりしてこれはこれで面白い。

ニューヨークの街と言葉といえば、このあいだストのあったMTAの地下鉄車内でもPoetry in Motionという企画で広告に混じって詩が載せられている。日本の中釣り広告は正直言って小学生とかの乗る車内に掲げていいもんじゃないでしょ。日本の都市にもここであげたニューヨークの例のようなものがあるのだろうか。